■ 昼も空に月の光 / 成  くらり、と眩暈がおこる。  目の前にはバラバラに散らばった女の体。  フローリングの床には、バケツの水を引っくり返したように赤い血が広がっていってい る。  むせかえる血の匂い。  切断面はとてもキレイで、臓物はこぼれていない。  ただ赤い色だけが、地面を侵食していっている。  不思議なはなし。  部屋には何もなくて、ただ、バラバラになった女の手足と、自分だけが、呆然と立って いる。 『───なに、を───』  フローリングの床に広がっていく赤い血の海。  自分の手には凶器のナイフが握られている。 『死ん───でる』  当たり前だ。  これで生きていたら人間じゃない。 『なん───で?』  なんでもなにもない。  たった今、自分の手で。  遠野志貴の手で、あっさりと、一瞬にして、見知らぬ女をバラバラにしてしまったんじゃ ないか。 『俺が────殺した?』  そう間違いなく。  それとも違うのだろうか。  自分には、そんなことをする理由がない。  だから違う、違うはずだ。  けど理由なんてものは初めからなかった。  だから違う、違うはずだ。 ———フローリングの床に、赤い血が広がっていく。  ぬらり、と。  足元に、赤い血が伝わってくる。 『………………あ』  驚いて靴をあげるけれど、間にあわない。  女の赤い血は、コールタールのように、ねっとりと足と床に糸を引いた。  『———————』  ああ……あかい、ち、だ  オレがバラバラにしてしまったから、いまも、だらだらとだらしなく流れ続けている厭 な色。 「———俺じゃ、ない」  ソウ、違ウハズ。  違う。違う。きっと違う、ぜったいに違う。  これは。  これは、これは、これは、これは、これはこれはこれはこれは———————  ……こんなのは、悪いユメだ。  けど、なんだってこう、血の匂いだけがひどくリアルなんだろう。 『……違、う』  そう。  違う 違う 違う 違う。  違う 違う 違う 違う。  だが。  自分が殺したというコトが違うのか。  それとも、自分が殺していないという事が違うのか。 『……だって、理由が、ない』  いや、理由ならはっきりしてる。  彼女を見た時、一つの事しか考えられなくなっていたから。 『俺は────』  そう、俺は───    遠野志貴は あの女を 殺したい、と。  それが、あの時の俺の意志だったハズだ。  ただ、頭の中がドロドロとしていて、あえて、そのイメージを言葉にしようとしなかっ ただけで。 『ちが─────う』  血の匂いに、吐き気がする。 『あ———ぐ』  胃の中のものが、戻ってくる。 『あ———あ』  眼球に、赤い朱色がしみ込んでくる。  くらり、と眩暈がして。  そのまま、赤い血の海にひざまずいた。 「あ———ぐっ…………!」  胃液が逆流する。  胃の中のものを残らず吐いた。  食い物も、胃液も、泣きながら吐き出した。  胃の中には何もない。  なのに起きてしまった出来事をなかった事に、もとの日常に戻そうとするかのように、 体は嘔吐を強制する。  ご————ぶ。  痛い。  内蔵が焼けてるみたいに、痛い。  涙は止まらなくて、体はゴミのように地面に崩れ落ちた。  広がっていく赤い水たまりに、膝が沈む。  べちゃりと、体が赤く染まる。  痛くて赤くて、ユメを見ているみたいだ。 「あ—————あ………!」  涙が止まらない。  人を殺したというコトが、ひどく悲しかった。  ……いや、それは違う。  人形でもバラすみたいにあっさりと、何の意味もなく、容赦なく殺してしまったコトが、 悲しかった。 ───よくわからない。  どうしてこんな気分になっているのか、  どうしてわけもなく殺してしまったのか、  その理由が解らない。 『────うそだ』  現実感がまるでないから。  だからこれは、いつもみたいに眩暈がして、その間に見ていたユメなんだ──── 『────うそだ』  ご───ふ。  胃液が唇からもれる。  口はおろか、あごから下は胃液でベトベトだ。  胃液には朱色が交ざっている。  吐き出すものもないくせに胃が蠕動するもんだか ら、のどが傷ついて出血してるのか。 『い……た────』  痛い。  だからきっと。  これはユメなんかじゃなく、俺は、自分にうそをついている。 『───全部、うそだ』  そう、ほんとは理解してる。  欲情してた。あの女性を見て興奮してた。  バラす時なんて、射精しそうなほど刺激的だった。  この目だってそうだ。  あの『線』が紙を切るみたいにモノを切断してしまう『線』だってわかっていたのなら。  遠野志貴は、さっきのように人間だって簡単にバラしてしまうって理解していたはずな のに。  俺は、そんなことを考えもしないで、ただ普通に暮らしてしまっていた。  ———自分が、簡単に何かを殺してしまえるような危険な人間なら。  俺はこの目を潰すか、誰とも会わないような生活をするべきだったのに。 『……ごめん、先生』 ———ほんとうに、ごめんなさい。  そんな簡単な事さえ、  遠野志貴は守れなかった──── 「俺は────狂って、いるのか」  わからない。  さっきまで湧きあがっていた衝動は、もう微塵も残っていないけれど。  あの時、耐えるとか堪えるとか、そういった意思すら働かなかった。  我慢する、という考えさえうかばない。 『この女を殺す』  そんなコトを当たり前のように考えて実行してしまった。  なら答えは簡単だ。  俺は、きっと狂ってる。  おそらくは八年前。  死亡確定といわれた事故から、奇跡的に蘇生したその時から———————  誰かに見られるとか、死体を隠さなくっちゃとか、そんな余分な事は一切考えられない。  考えない。  できるだけ何も見ないように、何も考えないようにして、俺はその場所を後にする。  後にしようとした。  でも、それも知っている顔を見てしまうまでだった────  開け放したドアの、  ぶつかりそうなほど近くに、  弓塚さつきが立っていた────  その存在だけで、思考を拒否していた自我が、暴力的に現実へ引き戻された。  考えなくてはならなかった。  目の前の現実は、逃避を許さない深さで、俺の日常につながっていた。  驚きで声も出ない様子の弓塚。  無理もない。  足下にゆっくりと広がってゆく血の赤と、血だらけの服と。そして、血塗れの俺の手に 握られたナイフ。  誰でも思いつけるような凡庸で陳腐な、殺人現場のイメージそのままの状況だった。  だからこそ、弁解の余地もまるでなかった。  当然だ。  俺が、今、ここで、人を殺したんだから──── 「遠野く───」  ───驚いた。この状況で口から出てくるのが、悲鳴でも糾弾でもなく、小さな呼びか けだなんて。  でも、そういうものなのかもしれない。  俺も、どうしたらいいのか解らないのだから。  見られたことを。  それが見知った者であったことを。  弓塚さつきを。  どうしたらいいのか解らなかった。  コロシテシマエ  心のどこかから浮き上がってくるコトバ。さっきから、考えないようにしていたのに、 無視していたのに、消えず頭の中にこびりつくコトバ。  一人殺すのも二人殺すのも一緒だと。  弓塚さつきをこのまま帰せば総てが終わると。  でも、俺が人を殺したからって、弓塚さつきの命の重さが変わるわけではないんだ。  だから、どうしたらいいのか解らなかった─── いや、どうしようもないのだ。それを認めることができなかっただけで。  もう、終わってしまったのだ。  俺は人殺しで、それは償いようのない行為で、何よりも自分がそれを許せないのだから。  不意に、そのイメージに支配された──── 「わたしね、あの時に思ったんだ。  学校には頼れる人はいっぱいいるけど、いざという時に助けてくれる人っていうのは遠 野くんみたいな人なんだって」  夕陽の中で─── 「でしょ? だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよ ね?」  交わした約束─── 「そうだね。俺に出来る範囲なら、手を貸すよ」  目を伏せて、弓塚さつきを見ないように、歩き出す。  立ちつくす弓塚の横を通り過ぎる時、 「ごめん───」  それだけ、つぶやいた。  ……どこからか、雨の音が聞こえてくる。  ザア————、という雨だれ。 「—————」  もうろうとしてる。  息を吸うと喉が痛んだ。 「い………た」  声があがる。 「————志貴さま?」  とたん、すぐ近くで誰かの声と気配がした——— 「自分の———部屋だ」  いつのまにか自分の部屋で横になっている。 「お目覚めになられましたか、志貴さま?」 「翡翠……?」 「はい。お体の具合はいかかでしょうか」 「………?」  翡翠はおかしなコトを聞いてくる。  お体の具合って、別に悪いところなんて一つもなかったけど——— 「なん———で」  そう、なんで。  自分は、こんなところで眠っているんだ—— 「俺は———ひとを、ころし——」  ころしたのに、と言いかけて口を塞ぐ。  その言葉だけは、口にしてはいけないと理性が歯止めをかけてくる。  そして、気がつく。  自分の自由が奪われていないことに。  翡翠の態度が変わらないことに。  弓塚は、警察に通報しなかったのだろうか?  多分、そうなのだろう。誰だってあんなことと関わり合いにはなりたくないだろう。  ある意味、それよりも不思議なことは──── 「翡翠、俺———どうして、ここに」 「……覚えてらっしゃらないのですか、志貴さま」  翡翠はかすかに眉をよせる。 「学校のほうから志貴さまが早退した、というお電話がありました。ですが夕方になって も帰ってこられず、姉が探しに行ったところ、公園でお休みになっていたそうです」 「———公園って———近くの公園?」 「はい。姉が志貴さまを見つけた時には、公園のベンチで休まれていて、志貴さま本人の 足で屋敷まで戻られました」  ……まったく記憶がない。  けど、翡翠の言葉には疑う余地がない。 「……ああ、もう夜の九時なんだ。……ぜんぜん記憶にないや」 「はい。お屋敷に戻られた志貴さまが言った言葉は、『眠りたい』というものでした。姉 はお医者様をお呼びしようとしたのですが、志貴さまは『いつ ものことだから』、と」 「———そうか。たしかに貧血で倒れるのはいつものコトだけど———」  ……今回はかってが違う。  俺はひとを殺してしまったんだから———って、あれ? 「翡翠。俺、どんな格好をしてたんだ?」 「———は?」 「だから服装。俺の制服、その、血で———」  ベッタベタに、汚れていたから。 「志貴さまの制服でしたら、汚れてしまっていたので洗濯をしておりますが」 「洗濯って———あんな血だらけの服を……!?」 「……たしかに泥にまみれてはおりましたが、血液らしきものはありませんでした」 「え……? だって、あんなに———」  血の海にひざまずいて、足も腕も真っ赤になっていたっていうのに……? 「志貴さま、なにかよくない夢でも見られていたのですか? 先ほどまでひどくうなされ ていたようですし、今もお顔の色が優れません」  翡翠はじっとこちらの顔を見つめてくる。 「夢って————アレが?」  夢だったっていうのか。  あの感覚が。  あの血の匂いが。  あの、悪夢みたいにキレイだった白い女が。 「いや———そうだよな。あんなのは、悪いユメだ」  ほう、と長い息がもれる。 ————そうだ。  あんなものは、悪い夢だ。  意味もなく理由もなく、幼いころに交わした先生との約束まで破って、俺があんなコト をするわけがなかったんだ。  でも、それは。  その都合のいい思いこみこそが、夢ではないのか。 「————っ」 「……志貴さま? ご気分がまだ優れないのですか?」 「———いや、もう大丈夫。あれは———あんなのは、夢に決まってる。そう、思わない と」 ———とてもじゃないけど、俺はこんなところで眠ってなんかいられない。 「それでは、志貴さまのご気分さえよろしければ夕食の支度をいたしますが」 「……夕、食」  ……まさか。まだあの血の色と匂いが脳裏から離れないのに、食事なんか、とれない。 「———いや、いいよ。今晩はこのまま眠る事にする。それより翡翠」 「はい、なんでしょうか志貴さま」 「その、さ。俺、夕方に帰ってきたらしいけど、秋葉はなんて言ってた?」 「秋葉さまなら、その時間はまだお帰りになられていませんでした。二時間ほど前にお帰 りになられたおり、姉のほうから志貴さまのご容体をお伝えしておきましたが」  それがなにか? と翡翠は無言で聞き返してくる。 「いや、別になんでもないんだ。たださ、帰ってきて二日目だっていうのに迷惑をかけた から、呆れてるだろうなって」 「……たしかに秋葉さまはご気分を害されてらっしゃいましたが、呆れているというわけ ではなさそうでした」  言って、翡翠は一歩後ろに下がった。 「それでは失礼します。何かご用がおありでしたらお呼びください」 「ああ、ありがとう。———と、もう一つ聞き忘れてた」 「はい、なんでしょう志貴さま」 「外、雨が降ってるんだね。いつから降りはじめたのかな、コレ」 「志貴さまがお帰りになられる前からです。姉が志貴さまを見つけた時、志貴さまは雨に 濡れていたんです」 「……………」  そうか。そんなコトさえ、記憶にはない。  どうやらよっぽど重い貧血だったみたいだ。  ……こんなコトなら、無理をせずに学校で休んでいればよかった。 「おやすみ。今日は本当にすまない。琥珀さんにもお礼を言っておいてくれ」 「かしこまりました。———それではおやすみなさいませ」 「————夢、か」  まるで実感がわかない。  あの夢の内容も実感がわかなければ、  アレが夢なのだという実感も。  外では、ざああ、という雨の音。  頭はまだかすかに重い。  不意に、弓塚さつきのことが浮かんだ。  あれが夢の中の出来事なら、弓塚との約束はまだ守られていることになる。  それが、あの約束が、今の自分には何故か、とても大切なものに思えた。  その想いを、胸にそっと抱きしめる。  ───あんなにも血塗れの姿で、誰にも見咎められずに帰ってこられる訳はないのだと。  あれは、夢以外の何物でもないのだと。  自分自身を誤魔化すようにそう繰り返して眠りにつく。  ……子供のころ。  自分自身さえも騙せない嘘はつくな、と誰かが言っていた気がするけれど。  学校に近付くにつれ、学生服姿の生徒たちを多く見かけるようになってくる。  今日は土曜日ということもあって、たいていの生徒は笑顔で道を歩いていっている。  この交差点を抜けてしばらくすれば正門だ。  立ち止まる。  自然と、自分の意志に関係なく、足が止まった。  学校には、弓塚さつきがいる。  それは───  避けようがない、現実だから。  俺は、再び重い足を運ぶ。  校門をくぐって、すぐに気づく。  一つの視線。  知らずうつむかせていた顔を上向け、その視線に応える。  避けようがない現実。  弓塚さつきが、微笑みかけた──── 「───え?」  例えば、怯えた眼差しとか。  例えば、嫌悪に歪められた表情とか。  そういうものを見せられると思っていた。  歩み寄ってくる弓塚さつきは、そんな俺の想像の枠の外から、俺に語りかけてくる。 「おはよう、遠野くん」  ただ、その笑顔がどこかこわばっているように見えて、逆にそのことが、俺を冷静にし てくれた。 「おはよう、弓塚さん」  そして、会話が途切れる。弓塚ももう笑ってはいなかった。  それで俺は、アレが夢ではなかったんだと、すんなりと実感────  気持ちの整理をつけるように小さく頷いて、落としていた視線を再び俺に向けて、弓塚 さつきはあらためて微笑んだ。 「遠野くん。これからわたしにつき合ってくれる?」  そんな現実感を失わせるようなことを口にして、俺の手を触れる程度の力で握った。 「弓塚───」  多分、酷く困惑しているだろう俺の顔を見て、弓塚さつきはふふ───と造り物じゃな い笑みをこぼす。 「わたしがお願いしても遠野くん困るよね。じゃあ、これは命令。遠野くんはわたしと一 緒にくるの」  そう宣言して、軽やかな足取りで校門へ向かう。 立ったままの俺の手と歩いている弓塚の手は伸びて、握られた手が離れそうになり─── 俺は自分から弓塚さつきの手を握りなおし、歩調を合わせて歩き出した。  本当に困る。俺の弱みを握っている癖に、少しも強引なところを見せないで、逆にこっ ちを気遣って言葉を選ばれても。  簡単に振りほどけるくらいに弱々しく俺の手を握って、それでいてそれを命令だと言わ れても。  それが弓塚さつきという少女なんだって解ってしまうから。  これからこの少女にどんな現実を突きつけられるのか解らないけれど。  ついていこうという気になる。  俺に強く手を握られて、弓塚さつきはびっくりしたような顔で振り返って、それから真っ 赤になって俺から視線を逸らした。  校門を出てしばらくして、手を繋いでいる必要はないのだと気づいて慌てて手を離した こと以外、語るべきこともなく、ずっと無言で歩き続ける。  気がつけば、弓塚さつきが歩くその道筋は、昨日一度辿ったものだった。  だとしたら辿り着く先は────  そのマンションに入る時、一度だけ、弓塚は俺を振り返った。  言葉はなかったけれど。  その目がとても哀しげで。  胸が、痛かった。  エレベーターを六階で降りるとすぐ、あの部屋のドアも見ることができる。  警察に封鎖されている訳でもない、昨日のままのドア。  近づいて、不思議なことに気づく。  昨日、ドアの外にまで流れ出していた血の痕が見当たらなかった。血に濡れた靴で歩い た足跡がどこにもなかった。  しかし、それを疑問に思うよりも前に自然と、昨日の翡翠の言葉が頭に浮かんだ。 「……たしかに泥にまみれてはおりましたが、血液らしきものはありませんでした」  そのことを、説明のしようのない事柄を、俺は少しも理解はしていないのに、心のどこ かで納得していた。  だから弓塚が呼び鈴を押しているのも、俺は不思議には思わなかった。  その部屋の中から返事が返ってきたことも。  ああ、そういうものなんだなと思うだけで。  ドアが開く。  そこにいたのは、彼女だった。  肩口までの金の髪に白い服。  細く長い眉と赤い瞳。  たった一度しか見てはいないけれど、俺がその姿を見間違えるはずがない。 「──────」  けど、そんなはずはないんだ。  だって彼女は、昨日俺の手によって、バラバラに殺されたんだから。  なのに、俺は不思議だとは感じていない。  ああ、そういうものなんだなと思うだけで。  彼女の表情に険しいものはない。  どうして、なんで、なんで殺した女が生きているのかもわからない。  間違いなく完璧に、およそ考えられる最終的なカタチで俺はあいつを殺した。  それなのに、でも、どうしてか不思議だとは感じられないでいた。 「こんにちは。昨日は本当にお世話になったわ」  女はにこりと笑顔をうかべる。 「───どうしてだ?」 「ん? なにが?」 「なんで生きてる?」 「ああ、そのこと。生き返ったのよ」  あっさりと答える。  まるで気負ったところもなく、自然と出てきたような言葉に、もう、疑う気もなくなっ ていた。  俺が黙っていることを違う意味にとったのか、女は説明を続けてくれる。 「わたし、人間じゃないの」  殺しても蘇る。  息の根を止めてもおかまいなし。  ばらばらにしても、すぐに元通りになって動きはじめる人間とは呼べないもの。  ああ、そういうものなんだなと思うだけで。  すべての説明しようのない現実を、そこに居るという事実で、力任せに納得させられる。  もともと、人間のような人間じゃない存在があってもおかしなことではないのだ。  俺の目だって充分におかしいんだから。  俺が黙っているから、女は説明を継ぐ。 「わたし、吸血鬼なの」  あんまり黙っているのも悪い気がして、言葉を返した。 「───吸血鬼なんだ」 「うん───さつきもね」 「え───!?」  当たり前のように付け足された言葉で、地面が揺らいだような錯覚に襲われ、眩暈に一 瞬、視力を奪われる。  目の前の白い女が吸血鬼でも、俺の目に黒い線が見えても、あの狂おしいほどの殺人衝 動も──── それらは特別な、暗い場所にだけ存在を許されているものだった。  そういうものなのだと、そういうこともあるのだと、特例として世界の片隅でだけ認め られているものなのだと────そう思うことで自分を納得させていた。  でも、弓塚さつきは違う。  彼女は日常だった。俺や、吸血鬼や、そんな『違う』ものが侵してはいけない場所だっ た。  俺の横に立っている弓塚さつきに、ゆっくりと視線を向けた。  弓塚は笑っていた。無理をしていることが解る笑顔。  それで、女の言ったことは本当なんだと、確信してしまった。  それがどういうことなのかとか、何を意味しているのかとか、解らないけれど。  哀しいことなんだということだけは、痛いほど、解った─── 「恨み言かもしれないけど、さつきのことはあなたにも責任があるんだからね。───入っ て、話長くなるから」  女が招き入れる前に呟いた言葉のことは、今は考えないようにして。  そして、その場所に再び戻ってきた。  昨日、人一人をバラバラに切り刻んだことが嘘であるように、そこにそんな痕跡はなかっ た。  だからといって、殺した記憶や感覚が薄れる訳ではなかった。逆に鮮明に、その時のイ メージが蘇る──── 「遠野くん!?」  眩暈に体をふらつかせた俺を後ろから支えて、弓塚が気遣う声をかけてくれるが、眩暈 は簡単には治まってくれなかった。  何より、匂いの記憶は直接体に訴えてくるから、あのむせかえるような血の匂いに、吐 き気を抑えるだけで精一杯だった。  少しでも早くこの場所から離れたくて、壁に手をついて、おぼつかない足を運ぶ。  意外なことに、吸血鬼は、心配そうな顔をして部屋で待っていた。 「なに、気分悪いの?」  昨日殺した女に、殺したことが原因で気分が悪くなったのを、心配される。  あんまりなことだったので、なんだか、体の中にわだかまっていた不快感が吹き飛んで しまった。 「いや、もう大丈夫───」  そう応えた俺に、女は不機嫌そうに眉をよせた。 「むっ、なに笑ってるのよ」  言われて、自分が笑っていることに気づく。  でも、これだけ滅茶苦茶な状況なんだから、思わず笑ってしまうのも自然な反応だと思 う。  ただ、俺が笑っているのは自分の置かれた状況の非現実さにではなくて、目の前の、吸 血鬼を名乗る女の、不思議な人なつっこさにだった。  それと───  なによりも、この輝くような美しさをまとう彼女が、目の前でころころと表情を変えて いることに。  だって殺した相手が生き返ってるんだから、俺は誰も殺してない事になるじゃないか。  そりゃあ『殺した』っていう行為は残るけど、彼女はちゃんと生きている。  ———それだけは。     正直、喜ぶべきことだと思う——— 「ごめん、落ち着いた。話聞く準備できたから、文句でも恨み言でも思う存分言ってくれ」 「うん、そうさせてもらうわ───でも、わたしが殺されたことよりも、なによりもまず 話さなくちゃならないのは、さつきのことよ」  その言葉で、考えないようにしていたことに向き合うのが今なのだと、知る。  人間ではない彼女が、弓塚を仲間だと言った。  吸血鬼である彼女が、弓塚を仲間だと言った。  それは、朝の学校からここまでに、弓塚が時折見せた哀しげな表情と重なって、心の中 に在った。 「とにかく貴方がわたしを殺してくれたことは取りあえず置いておくわ。その後───わ たしもよく解らないからこれはさつきから聞いたことなんだけど───あ、さつきから話 す?」  女が弓塚に話を振る。弓塚は少しためらって、それから、うんと頷いた。 「じゃあ、わたしから話すね───昨日、学校で遠野くんが早退した時、実はわたし少し 遅れて遠野くんのこと追いかけたの。遠野くん本当に気分悪そうで、あんな状態の遠野く ん、一人で帰すのなんてできなくて。先生の許しをもらう前に一方的に遠野くん送ってい くって言って、そのまま教室を飛び出して───」  恥ずかしそうに言う弓塚を、痛みを伴いながら、俺は見つめる。  まるで恋愛小説のような話が、甘酸っぱい雰囲気のまま続かないことを知っているから。  弓塚が続ける。 「わたしなんだか舞い上がっちゃって、遠野くん校舎の中で追い抜いたらしくて、そのこ とに気づいたのが街の中で、その時にはもう遠野くん見つからなくて、途方に暮れちゃっ て───気がついた時、自然に目を奪われてて、それは女の人で、目を奪われるのも当然 だって思える、とても綺麗な人で」 「その綺麗な人っていうのがわたしよ」  誇らしげに言う吸血鬼の台詞で、彼女の登場シーンが、台無しになった気がした。  黙っておく。 「少しして、その人に目を奪われてるのがわたしだけじゃないことに気づいたの」 「それが貴方よ」  まあ、言われなくても解るけど─── 「遠野くん見つけられて、わたしすぐに駆け寄ろうとしたんだけど、遠野くん、様子がお かしくて────気分が悪いとかじゃなくて────」  そこで弓塚が言葉を切った。その意味するところがなんなのか、聞かなくても解ってい た。  だから、聞きたくなかった─── 「とても怖い遠野くんだった───時々遠野くんから感じていた、何だか解らないものが、 少し見えた気がして───」  ───少し意外だった。弓塚は、普段からアレを、俺から感じていたのか? 「それで、声をかけられなかった。遠野くんはその女の人を追いかけて歩いていって、わ たしも、遠野くんを追いかけて。  そして、このマンションまで来て────」 「貴方がわたしのことバラバラにしたのよ」  あんまりあっさりと言うから、そのことが重要なことに聞こえないけれど───  ……ああ、生き返っているから問題ない、とかいうのは嘘だ。  遠野志貴は、目前の女性を殺してしまった。  それは究極の略奪というか、これ以上ないっていうぐらいの暴力だと思う。  決して、許されることではなかった。 「───遠野くんがいなくなって、それから、わたし部屋に入ったの。すごく血が流れて たけど、もしかしたらまだ助かるかもしれないって───だけど一目見ただけで無理だっ て解って──ううん、それよりも前にショックでその場に座り込んじゃって、そのまま気 絶して────気がついた時、床に流れていた血が消えてた。バラバラになった体もなかっ た。それで夢だったのかなって思ったけど、でも女の人は倒れていて体中の傷口から血が 染み出していて、やっぱり夢の中の出来事みたいだったけど───その苦しみかたがとて も痛くて、見てるだけで痛くて、その人は初めて見る人なのに、その苦しみのわずかでも 引き受けることができたなら、どんなにこの心の痛みが薄らぐだろうって思うくらい苦し んでて───もしもこれが夢の中の出来事だとしても、ほっとけないと思って」 「それでさつきは、わたしにずっとついていてくれたのよ───」  そう言った吸血鬼の言葉には親愛と───それと痛みのようなものが混じって俺には聞 こえた。 「ここからはわたしが話すわ───  昨日、殺人鬼に襲われて、いきなり殺されちゃったんだけど───」  女がじっと、俺を見る。  ───えーと……。 「───その殺人鬼っていうのが俺?」 「ほかに誰がいるのよ。  ───うん、アレにはまいったなあ。もうかんっぺきな不意打ちで、反撃する間もなく 十七つに切断されたんだから」 「う————」 「もの凄く痛かった。  あんまりにも痛いから気がふれそうになるんだけど、やっぱりあんまりにも痛くて正気 に戻る。その繰り返しに、理性を保つこともままならなかった。  想像できないでしょうけど、一度死んでから蘇生するのにはそれなりに力を消費するの よ。  まあ単純に殺されただけならどうってコトないんだけど、貴方の方法は今まで見た事も ない切断方式で、傷口が繋がらないから体を作り直すしかなかったの。  その結果、わたしは生き返るのにほとんどの力を使ってしまって───吸血衝動を抑え るべき精神力も保てなくなった───」  そう言った女の整った顔に怒りが浮かぶ。それは自分自身に対するもののように見えた。 「───わたしは、切り刻まれても生き返るような化け物であるわたしを心配して、ずっ とそばについていてくれたさつきの血を吸った───痛さに薄れかけた意識の片隅で感じ た人の気配を、わたしは獲物としか認識しなかった。  ───血を吸いながら、わたしの汗を拭いてくれた優しい手の感触とか、握っていてく れた手の温かさとか、なんとなく思い出して───はっと我に返って、口を離した時には、 もう、手遅れで───」  女は事実を告げるために、重い口を休めない。 「吸血鬼は血を吸う時、自分の血を相手に送り込むことで、その相手を吸血鬼にするのよ ───」  それがつまり、女が弓塚さつきを吸血鬼だと言ったことの意味で───残酷な現実で……。 「送り込んだ血の量はほんのわずかで、ある意味ではさつきは吸血鬼にもなりきれていな い。本当なら太陽の下になんか出ていけないし、それ以前に生きてはいないはずなんだけ ど、さつき肉体と精神のキャパシティが異常に高かったから、普通の吸血鬼化のプロセス を無視して生きてるのよ──けど、さつき平気な顔してるけど、ずっと苦しかったはずよ。 体の内側からわたしの血に蝕まれていってるんだから。  そうなんでしょ、さつき?」  女の問いかけに、弓塚は、笑って応えた。 「ううん、そんなに苦しくないよ。ちよっと変な感じがするだけ。太陽も真夏の日差しみ たいに感じるだけだし。わたし夏好きだから、ちょっと得した気分」  弓塚の明るさに、女が辛そうな顔を見せる。  ───違うんだ弓塚。そうやって心配をかけまいと無理をするその姿が、余計、後ろめ たいことがある俺達には、痛いんだ。 「———さつきは完全には吸血鬼化していないけれど、その存在が人間よりも吸血鬼に近 いのは間違いないのよ。  ───だから、もう普通の人間としての生活はできないの」  あっさりと言った。多分、そうしたほうが辛くないから。言う側も。言われる側も。 「───でも、昼間も普通に出歩けるんだし……そもそもお前だって普通に生活してるじ ゃないか、昼間にも出歩いてるじゃないか」 「私は真祖だから特別なのよ。さつきは死徒だけどまだ人間の部分も多いから、一見、普 通に見えるだけ。  確かにある程度は普通の人に混じって生活はできると思う。でも、十年後、二十年後に なって、その間、ほとんど歳を取らない人間がいたらどう思う?  百年後、人間の部分に引きずられて多少の老いが表れたとしても、充分に若い容姿のま までいたら、周囲からどう思われる?  それにわたしだって普通に生活をしてる訳じゃない。八百年生きている存在を、人は受 け入れてはくれないわ」  絶望的な気分になる。弓塚さつきの人生に、取り返しのつかない影を落とした事実に。 「じゃあ、どうすれば───」 「ここでの使命を果たしたら、さつきはわたしの城へ連れて帰るわ。  ───それがいちばんいいのよ」  女もそう思っていないのだと解る、自信のない弱い調子だった。  それで、途方に暮れているのが自分だけではないのだと知った。 「───ほかに方法はないのか?」 「あったとしても今は思いつかないし、とにかく城には帰るわ。あそこがいちばん安全だ から」  何か、聞き捨てならないことを言った気がする。 「……安全? 何か危険なことがあるのか?」 「いるのよ。吸血鬼を、正確には死徒を滅ぼすことに命をかけてる連中が。真祖であるわ たしにも手を出してくるくらいだから、いくら吸血鬼になりきれていないにしても、さつ きのことを見逃してはくれないわ。そういういやらしいところなのよ」  汚らわしい物を見ているように顔をしかめる。 「本当にいやらしいところなのよ」  繰り返してそう強調してくれた。  場の空気を切り替えるように女が顔を上げる。それだけで本当に雰囲気を変えることが できる女の美しさに、場違いな感動を覚える。 「まだ細かいところまで説明できてないけど、少なくとも、あなたが何をしたのか、それ がどういうことなのかっていうのは解った?」 「───ああ。謝るとか、償うとか、そういう言葉で繕うことができないくらい、取り返 しのつかないことをしたんだって、そう思うよ」  女は満足そうな顔を覗かせる。 「うん、解ってるならいいわ。  じゃあさっそく、さつきに血を吸われなさい」 「…………」 「…………」 「「……え?」」  俺と弓塚の声が重なった。  ───そもそも、どうしてそういう話の流れになったのかが理解できない……。  そんな俺達の反応に、ご不満の様子。 「なによ、この期に及んでまだ嫌だとかいうの?  ───さつきもなに驚いてるのよ」 「で、でも、だってわたし、平気だから───」 「そうやって吸血衝動を抑えていると、いつか限界がくるわよ。制御できる今のうちなら、 相手に負担をかけないように血を吸える───説明したでしょ?」  なんとなく話が見えた気もするけど、解らないこともあった。 「でもっ! ───でも、あの……遠野くんの気持ちも……」 「とりあえずこれの気持ちは置いといて」 「ちょっと待て」 「なに?」 「いや、言いたいことは山のようにあるんだが、まず───『これ』ってなんだ」 「だってさつきから貴方のこと聞いてはいるけど、まだ自己紹介してないじゃない」 「…………」 「…………」 「遠野志貴」 「アルクェイド・ブリュンスタッド」 「…………」 「……で?」 「血を吸われろってどういう意味だ?」 「そのままの意味だけど」 「血を吸われたら吸血鬼になるんじゃないのか?」 「自分の血を送り込んだら、よ。吸血衝動に理性を失う前なら、ちゃんと制御して血だけ を吸うことができるわ。そして今のままなら、いずれさつきは吸血衝動を抑えきれなくな る。  つまり、そういうことよ」 「それは───俺の血を吸えば、弓塚は束の間でも普通の人間のように生活できるってこ とか?」 「あんまり今まで通りの生活ができるって幻想を持たれても困るし、あとで辛いと思うけ ど、まあ、そうね」  だったら───ほんの少しでも弓塚が人間に戻れる時間を持てるのなら、血を吸われる ことくらいなんでもないことだと、そう思う。 「じゃあ、吸う?」  弓塚に言う。 「え?!」  驚いて、そして弓塚は何故か、赤くなった。 「あ、あの、遠野くん、でも、その、痛いよ、きっと───」 「弓塚さんも痛かったの?」 「あ───ううん、ちょっとは痛かったけど、でもそれでアルクェイドが落ち着いてくれ たら。痛みが少しでも楽になるのならいいって思ったから───それまでなにもできなかっ たから、自分にできることが解ったような気がして、痛みよりも前になんだかほっとした」  ───ああ、こういう子なんだな…… 「俺も、弓塚さんには少しでも楽になってもらいたいって思う。そのほうが俺も楽だよ」 「───うん、じゃあ、遠野くんの血、吸わせてください」  決心をするための沈黙の後に、やはり何故か赤くなって、弓塚が言った。 「───でも、ふたりっきりがいいな……て……思う……その……恥ずかしい……から……」  さっきからの弓塚を見ていると、血を吸うということが、何か愛情表現のひとつででも あるかのように思えてくる……。  ただ、それの緊急性も考えておかなくてはいけなかった。いつまで弓塚が吸血衝動を抑 えられるのかは、弓塚にも解らないはずだった。  でも、どうであれ弓塚がそう主張する以上、その言葉を尊重する。  陽が沈むのを待って、俺と弓塚はアルクェイドの居るマンションを後にした。  太陽の下に出ても大丈夫だとはいえ、やはり弓塚の体に負担がかかるのは事実で、陽の 出ているうちは建物から出ないようにしたのだが、完全に陽が沈むのを待ったというより 結局、話が尽きなかったというのが正しいのだろう。  聞いておかなくてはならないことは山のようにあったから。  ────弓塚さつきを元に戻すことはできないのだという、救いのない現実を突きつけ られただけだったが。 「こうして遠野くんと一日一緒にいられるなんて、なんか夢みたい」  笑って、弓塚はそんなことを言う。  ずっと、弓塚は明るかった。  ───その明るさが、どこか悲しく見えて。  沈黙があって、弓塚の表情から、笑みが消えた。 「考えてみると、わたしってばかみたいだよね。こんなふうに遠野くんと話すこともでき ないで、何年間もあなたのことを遠くから見てるだけだった。  ──ずっと遠野くんのことを見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと遠野くんの 事を見てた。  わたし、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理をして笑ったり話を 合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった」  自嘲するように口元を弛めて、視線を落とす。 「だから、学校はあんまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、 遠野くんに話しかけられてから変わったんだ」 「え———?」 「ううん、遠野くんは覚えてなんかないよ。なんていうのかな、あなたはいつも自然で、 飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、遠野くんにとってなんでもない一言だったん だろうなあ」 「——————」  なんていえばいいんだろう。  弓塚の言うとおり、俺は何も覚えていない。  弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話したことがあるなんていうことさえ、覚えてな い。 「いいよ、そんな顔しなくても。遠野くんはあの頃から乾くんに付きっきりだったから、 他のクラスメイトには興味がなさそうだったし───  けど、それでも良かったんだ。遠野くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく 嬉しかった。  いつかあなたにちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれることを目標にしてたなんて、 今思うとすごく損してたなって思うけど」  懐かしむように彼女は言った。  とても昔。  ……とても遠い昔のことを思い出すように。 「わたし、ずっとあなたのことを見てた。  気付いてくれないって解ってたけど、ずっと見てたんだよ」 「——————」  それは———正直嬉しいけど。 「だから」 「わたしはずっとあなたを見てきたから。だからあなたの優しいところも、恐いところも ちゃんと分かってた。  わたしがあなたに話しかけられなかったのはね、遠野くんの恐いところがなんなのか解 らなかったからなんだ。  でも今なら解る。  わたし、遠野くんがもってる脆い空気がなんなのか解らなかった。けど、こんな体になっ て理解できたんだよ。  遠野くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。  世の中には稀に生まれついての殺人鬼がいるけど、その中でもあなたは生粋の殺人鬼だ わ」  ───突然…… 「なっ───」  何を言っているんだろう……。  弓塚は、解らないことを言っている。 「わたしね、こんな体になって、初めてよかったなって思えた。  だって今まで解らなかった遠野くんを、ようやく理解できたんだもの。  ね、遠野くんだって同じでしょう? 誰かを見て、理由もなく心臓がどくんどくんって 高鳴って、喉がカラカラに渇いたりするでしょう?」 「うそ——だ、そんなコト———一度、だって」 「—————」  一度、だって……… 「ほら。それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。わたしが理解したくてずっと 理解できなかった遠野くんの脆いところ」  ……弓塚は、解らないことを言う。  そして、いたわるような目で、俺を見る─── 「自分の意志とは関係ない別の場所から、自動的に現れるのよね。遠野くんの場合はどう なのか解らないけど、わたしは吸血衝動がスイッチになって人を殺そうとする。  ───そんなことしたくないのに、殺せ、殺せ、血を吸いつくせって、もう一人のわた しが言うの」  ……弓塚は─── 「───でもその声に従ってしまったら、何もかも終わってしまう気がして……  だから、血を吸うのがとても恐い───  罪の意識とかじゃなくて、純粋にね、今までわたしだったわたしが薄れていくのが恐い の。  アルクェイドの言うように理性を保っていられるのか、自信ない……」  ───ああ、そうだ、辛いのは弓塚も同じだ。  弓塚は俺のことを言いながら、同時に自分のことを告白していたんだ。  自分の愚かさに腹が立つ。自分のことにしか思い至らないで、現実から目を逸らして、 逃げようとして。結局自分のことが可愛いだけじゃないか。 「どうしてこんなことになっちゃったのかな」  疑問でも怒りでもなく、ただ淡々とつぶやかれた言葉に、胸が締めつけられる─── 「昨日までの生活が夢みたいに感じられる。失ってみて初めてわかった。———うん、ホ ントに夢みたいな時間だったなあ。もし戻れるのなら、わたしはどんな代償を払っても戻 りたい」  昨日の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。 「でも、もうダメだよね。わたしはもとのさつきには戻れっこないんだから」  弓塚はあの時とまったく同じ笑顔で告げる。 「弓塚さん───」  口を開いて、そして続けるべき言葉のひとつも出てこない自分が嫌になる。 「───ね、呼び捨てでいいよ。それにそのほうが親密っぽくて───嬉しいし───」  言っている途中から赤くなって、弓塚の言葉は中途半端に途切れる。  昨日の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。 「弓塚」  それは、ただのまやかしなのかもしれないけど。  それでも、言葉だけでも俺の覚悟が伝わってくれたらと、そう思う。  弓塚は、初め驚いたように俺を見て、それから、本当に嬉しそうに笑った。 「なに? ───志貴くん」  公園に入る。 「───多分、志貴くんは誤解してるよ。アルクェイドは可愛いの。外見だけで判断した らダメだよ」  弓塚は饒舌だった。公園に近づくほど。夜が更けるほど。 「わたし、苦しんでたあの子の手をずっと握ってたの。それで、だんだん正気に戻ってい くあの子がわたしに、自分は吸血鬼だとか自分のこと恐くないのかとかおそるおそる聞く の、嫌われるのを恐がってる子供みたいな目で、何度も何度も」  その時、血を吸われているはずだった。そのことに触れずに話が進む。 「だからわたしも何度も何度もそんなことないよ、安心していいよってこたえて、頭を撫 でたり髪を梳いたりするの。そうするとね、あの子本当に無邪気な笑顔を見せてくれるよ うになって───もうとっても可愛いのっ」  この公園を過ぎれば、もう人目に触れずにいられる場所はなかった。 「アルクェイド、スキンシップをとっても喜ぶの。  ───もともと人だった吸血鬼じゃなくて、初めから真祖として生まれた彼女には親は いないって聞いた。多分、生まれてからずっとスキンシップを、愛情を注がれたことがな いんだと思う。  ───だから、わたしがあの子の家族になるの」  それは、弓塚が今の家族と離れるということだ。そのことに触れずに話が進む。 「ね、そういえばアルクェイドってお城のお姫様なんだよ。だから、えーと、年齢でいえ ば妹になるのかな、その妹のわたしもお姫様なんだ。  これで丘の上の王子様と釣り合いがとれるね」 「弓塚」  今まで、切れ目を作るのを恐がるように喋り続けていた弓塚が、俺の一言で沈黙する。  弓塚は、血を吸うのが恐いと言った。 「────実は俺も普通の人間じゃないんだ───ああ、殺人鬼だったっけ、俺。  正確には、殺人鬼よりもちょっと人間離れしてるんだ」  弓塚は俺の前後に繋がらない話に、ついてこれずに言葉を失う。 「俺の目は、物の切れやすい線を見るんだ。その線をナイフでなぞると、何でも、面白い ように切れる───吸血鬼を殺すこともできる」  あ、という口の動きで理解を表して、弓塚は俺の次の言葉を静かに待つ。  弓塚も解っているはずの言葉を、俺は口にする。 「もしも、弓塚が弓塚でいられなくなるのなら、俺が弓塚を殺すから」  だから安心していいよなんて、なんて矛盾した言葉なんだろう──なんて悲しい言葉な んだろう……  なのに弓塚は、俺の言葉に笑って頷くのだ。 「うん。なんだか恐かった気持ちが嘘みたいに消えていくよ。  志貴くんに殺されるならいいかなって思えるのってすごいね───わたし本当に志貴く んのこと好きだったんだなあ」  そんな恥ずかしくなるような台詞に、俺はどうしようもなく、泣きたくなった。  でも、泣いたら弓塚の決心が鈍るかもしれないから。弓塚をまた恐がらせてしまうから。 俺は涙を見せない。 「じゃあ、志貴くん、いいですか?」 「うん。───おいで、弓塚」  おずおずと差し出された手が俺の肩につかまり、首筋に熱い吐息がかかって、前髪がむ き出しになった肩をくすぐって、肌に口づける甘い感触に背筋が震えて───そして牙が 俺に入ってくる。  ポケットの中のナイフを握りしめた。  一瞬で痛みが去った。もう弓塚の歯の感触はなかった。  弓塚はただ口をつけて、傷ついた血管から流れる血を舐め取っているだけだった。  痛みはないが、くすぐったい。  弓塚の口が離れた。 「───もういいのか?」  多分、一口くらいの量しか飲んでいない。 「うん。ほんとはもっと血が欲しくて喉が渇くんだけど───心がね、すごく満たされて るんだ。体の中の志貴くんの血があったかくて、目の前に志貴くんがいてくれて、もう、 なにもいらないかなって」  そう言って、照れたように、弓塚は笑った。  俺は、この少女を守っていかなければならない。  もう破ってしまった約束を守ることはできないけれど。  もう失われてしまった大切なものを元に戻すことはできないけれど。  でも、大好きな女の子を守りたいと思う気持ちは自分でもどうすることもできないから。  ───この感情は、もしかしたらぬぐえない罪悪感から出てきたものなのかもしれない。 友達に対する好意を恋愛だと錯覚しているだけなのかもしれない。  だけど、もう決めたんだ。もしかしたら失われたものを取り返すことができるかもしれ ないと、失われたものの代わりにもっと大切なものを手に入れることができるかもしれな いと───そんな夢を見るのも悪くないと思うから。  弓塚となら。  一途で、  臆病で、  生きるのに不器用そうで、  傷ついた吸血鬼を放っておけなくて、  自分の人生を歪めた俺を一言も責めない────  そんな少女のそばにずっといられたらと思う。  放っといたらまたやっかい事を抱え込みそうな気がする。すでに殺人鬼と吸血鬼に気に 入られてるんだから。だからもう、一瞬でも目を離したらダメだって。  そう思ってしまう。  だから弓塚、迷惑かもしれないけど、よろしく頼むよ。  それと、ごめんな、秋葉。  今までついていてやれなかった分、これからは一緒にいるつもりだったんだけど。駄目 な兄を持ってしまったんだって諦めてくれると───初めから期待されてないか。  でも、ほかに言うべき言葉がないから。  だから、ごめん。  ベッドにもぐり込んで、静かに目を瞑る。本当に疲れている証拠なんだろう、無抵抗に 眠りへと、ずぶずぶと沈んでいく。  知らず思い返す、失ったものとやりきれない想いが心を締めつけ、それも眠りに支配さ れる刹那、意識を手放すその最後の瞬間に、俺の心の中に最後まで残っていたものは、弓 塚さつきの笑顔だった。 ───そんな、幸せな夢だった           Goto 0 ───この幸せがどうか、夢で終わらないように           Goto 1         0  目が覚めた。  カーテンをひいた窓から、朝の陽光が差し込んでくる。  線が見え、鈍い痛みが頭に染み込んでくる。眼鏡をかける。 「志貴さま、お目覚めになられましたか?」  翡翠の声。いつも通りの声。  朝が来たんだと、そう実感できる。 「ああ、おはよう、翡翠」 「おはようございます、志貴さま。着替えはそちらにご用意してあります」 「うん、ありがとう。着替えてすぐに降りるよ」 「はい。それでは失礼します───志貴さま?」  なにかに不意に気づいて、思わず漏らしたような翡翠の声。 「なに?」  翡翠はしばらく言葉をためらって、それから声を落として訊いてくる。 「その───泣いておられるのですか?」 「え───」  ───おかしいな。だって、泣く理由なんてないじゃないか…… 「助けてはほしいけど、もうダメだよ。わたしはもとのさつきには戻れっこないんだから」 「……なんでもない、ちよっと朝日が眩しかったんだ───」  翡翠はきっと、いぶかしげな顔をしているだろうけど─── 「───目に痛いくらい眩しかったんだ」  でも、お願いだから─── 「ではカーテンをお閉めしますね。それでは、下でお待ちしています」  言葉通り、カーテンの閉まる音がして、ドアの音が続いて、人の気配が消えた。  ───ありがとう、翡翠……。 「……わたし、もっと遠野くんと話したかった。ほんとうに普通に、なんでもないクラス メイトみたいに話したかった。だから、いま死んじゃうのはホントにイヤだよ」  ────涙の止めかたが      どうしてか      思い出せない────         1 ───坂道を下っていく。  まだ慣れたとはいえない通学路を、足の運びをもどかしく感じながら歩く。  時間は充分にある。急ぐ必要はなかった。  でも、歩調はゆるめない。  ちらほらと学生服をきた人影がまざってくる。  ここのあたりにくるとうちの学校の通学路になるのだろう。  そして、坂道の終わりのその十字路に、弓塚は立っていた。 「おはよう、志貴くんっ」 「おはよう、弓塚」  そんな当たり前の挨拶が、とても大切なものに思えて、口にした言葉を噛みしめる。  どちらからともなく歩き出す。会話は、学校では話しにくいことに片寄る。 「弓塚───やっぱり吸血鬼を狩るのに弓塚がつきあう必要はないよ。危険だし───そ もそも弓塚になにをさせたいんだ、あの吸血鬼は」 「アルクェイドだってほんとに危険ならわたしを連れ出さないよ。今日で力もだいぶ戻るっ ていってたし、死徒に対するにはそれで充分だって。  アルクェイドはあの子が生きる世界を見せたいんだと思う。これからわたしたちが生き ていく世界だから」  弓塚はきっぱりとそう言い切る。それだけの覚悟があって口にできる言葉だと思った。  俺も同じことを言えるだろうか。  ただ、そんな自分への問いかけに、疑問符がついていないことが誇らしかった。 「ね、今日は一度家に帰ってからアルクェイドのところ行く? それとも直接学校から行 く?」 「うちは門限うるさいから、一度帰ってから抜け出してこないとダメなんだ」  昨日も延々と説教された。兄なのに。 「そっかー、厳しいんだね、志貴くんのお家」  おもに妹がね。 「じつは、わたしも抜け出してこないとダメみたいなの。ほら、無断外泊しちゃったから。 昨日は二時間くらいみっちりお説教されちゃった」  親に叱られたということを、嬉しそうに弓塚は話す。  心配してくれる人がいることの幸せを知っているから。  住宅地を抜けて交差点につく。  昨日も来たはずなのに、学校へ向かう生徒の姿、そんな光景が、ひどく懐かしかった。 「————?」  教室に入るなり、教室中の視線が一斉に集る。  俺の近辺に。ていうか俺と後ろの弓塚に。  朝の校舎はいつも騒がしいのに、この教室だけ、異様な静寂に支配されていた。  窓際の自分の机まで歩いていく。視線が俺の歩く方向についてくる。  そこには仏頂面をした有彦が待っていた。 「有彦、なにかあったのか?」 「……さあね。別にたいした事じゃない。たんにお前と弓塚がつき合いだしたってうわさ 話で持ちきりってだけの話だ」 「そっか、どうりで空気が重いはずだ」  理由が解り少し落ち着いた。自分の席について、ふう、と一呼吸つく。 「———って、なんでそんな話にーっ!」  ふと、何故か俺の机までついてきて、今も横に立っている弓塚に気づく。  真っ赤になってもじもじしていた。  ……ちょっと嬉しそうだった。 「一昨日、早退したお前を弓塚が追いかけて、そのまま帰ってこなかった。  昨日、朝校門をくぐってすぐ、二人手を繋いでそのまま学校エスケープ。  俺には、お前が何を疑問に思ってるのかが解らないんだが」  静かに、有彦が告げる。  ───そういえば、そういう状況になってたんだなあ……  静寂が重かった。視線が痛かった。特に男子連中の顔には、殺気のようなものが張り付 いていた。  ────そういえば、弓塚はアイドルだったんだよなあ……  不機嫌そうな有彦。  むしろ嬉しそうな弓塚。  順番に差し向けた視線を、最後に窓の外へと移した。  空は──青く澄んで広がる空は、こんなに憧れ焦がれるのに、とても遠くに感じられた。  ────たすけて、先生……  悲しくもないのに、何故か、涙で視界が滲んだ── /END